
岩手県奥州市
2022.05.06
この記事では、日本各地のナビゲーターが、その土地に暮らす人たち(ふるさとLOVERS)からお聞きした「100年先に残したいもの」をご紹介しています。今回は、熊本県阿蘇市で農業を営む中山北斗(なかやまほくと)さんが特別な存在との思いを抱く「阿蘇の草原」です。
阿蘇の外輪山一帯を覆う、眩いばかりの緑の絨毯。訪れるたびに心を奪われる阿蘇の草原。この風景を熊本県阿蘇市の「100年先に残したいもの」として教えてくれたのは、阿蘇市で農業を営む中山北斗(なかやまほくと)さんです。
阿蘇で生まれ育った中山さんは、農業に可能性を感じ、父・美智也さんが長年取り組んできた無農薬栽培の米作りを受け継ぎ、後継者になりました。美智也さんが編み出した独自の農法「スパルタ農法」は、除草剤はもちろんのこと、肥料や農薬、動物性・植物性堆肥までも一切使用せず、田んぼで採れた稲わらと米糠の力を生かして土づくりや、苗を強くするというもの。自然の摂理に寄り添って、時間と手間をかけています。
そんな中山さんにとって息抜きとなるのが、阿蘇の草千里や大観峰(だいかんぼう)まで愛車のハーレーを走らせて、草原を眺める時間。「このうつくしい景観は、実は人の営みによって成り立つ特別なものです」と中山さんは話します。 阿蘇の大地に広がる草原は、幼い頃から当たり前にあった風景でした。しかし、社会人になり、草原で行われる「阿蘇の野焼き」に初めて参加したことで、その風景の見方が変わったといいます。
「阿蘇の野焼き」は春の阿蘇の風物詩で、草原を維持するために毎年行われる伝統行事。1000年以上前から行われていたという野焼きは、雨や強風などの天候に左右されやすく、乾燥した冬の空気の中、一気に火が燃え広がれば時に命の危険も伴います。その担い手が減少した今、 全国から集うボランティアに支えられているのが実情です。
ボランティアは、事前に1日がかりの講習と実践訓練を受けた上で現場に挑まなければなりません。この活動を担うのが、草原保全事業の一環として野焼きボランティアの受け入れ・育成などを行う公益財団法人阿蘇グリーンストックです。
今回お話を伺ったのは、阿蘇グリーンストックの鷲津大輔(わしづだいすけ)さん。 まずは鷲津さんに、なぜ阿蘇で野焼きが行われるかを教えてもらいました。「草原は、牛の餌となる野草地としても建材としての茅を採草する場としても、阿蘇の暮らしに欠かせない資源の場でした」
「『あか牛』がのんびりと草を食べる放牧の風景は阿蘇ならではの光景ですが、牛たちの餌となる野草の芽吹きを促すためには野焼きが欠かせないのです」と鷲津さん。草原が、阿蘇の人々にとって貴重な生活資源だったからこそ、野焼きを続けてきたのですね。
野焼きといっても、野に火を放つという単純なものではありません。必要な部分だけ燃やすための入念な下準備が必要です。 鷲津さんによると、春の野焼きは、前年の秋から下準備が始まるそう。まず、牧野や森との境目に「輪地切り」「輪地焼き」と呼ばれる防火帯を作る作業をします。周囲の山々に続く急斜面を、草刈り機を背負ったまま登り、幅約7〜10mにわたって草を刈るのが「輪地切り」。
「実はこれが、野焼き以上の重労働なんですよ」と鷲津さんは言います。さらに、そこで刈った草を乾燥させ、防火帯の上で燃やす「輪地焼き」をして、野焼きができる素地が整う(※地域によっては異なる場合もある)のです。推薦者の中山さんは「野焼きは毎回、火の力に圧倒されます。周りの方に遅れを取らないように必死です」と、その大変さを語っていました。だからこそ、この風景のありがたみを実感するのでしょう。
阿蘇の草原にはもう一つ、大事な役割があります。昔から“九州の水甕(みずがめ)”とも呼ばれていて、草原を守ることは、中山さん親子のように農業に取り組む人だけでなく、阿蘇を起点に流れる北部九州の6つの河川流域に暮らす人々の生活まで、広く潤す役割があります。
阿蘇は、海抜が高く、海にも近いという地形的特徴によって、日本の平均雨量の約2倍の降水量を誇ります。阿蘇の草原は、たっぷり降り注いだ雨をゆっくりと受け止めて、ミネラル分を多く含む火山性の大地の中で時間をかけて濾過し、水を蓄える天然の水甕として機能してきたのです。
この大切な景色を守っていくために、阿蘇グリーンストックでは、地域の子どもたちと野焼きの仕組みを学ぶワークショップを企画するなど、草原の正しい知識を伝えようと努めています。
阿蘇に生まれ育った鷲津さん自身、阿蘇の草原の大切さに大人になって気づいた一人。大学を卒業後、設計・製図の現場で働いたのち、「阿蘇の環境保護に努めたい」と阿蘇グリーンストックへ転職を決意しました。「実家に帰省する道すがら、阿蘇の景色を眺めていたときに、守るべき財産はすぐそばにあると気づきました。景観だけでなく、貴重な草原性の動植物や豊かな水など、世界に誇る自然の宝庫なのです」と、鷲津さんはその思いを語ります。
近年、畜産業の低迷や農家の後継者不足なども相まって、野焼きの担い手が減少。1905年から今日にかけて、阿蘇の草原の面積の約半数が雑木林と化してしまったといいます。「草原を維持することは、阿蘇の生態系にも重要な意味を持つのです。草原が荒れると、阿蘇でしか見ることのできない貴重な動植物や、豊かな伏流水で育つ農作物、県内に豊富に湧き出る湧水、ひいては水甕としての機能を失った河川流域の人々の暮らしへの影響は計り知れません。今のままだと、草原が減っていくことは確かです。野焼き、草原の価値を人々に伝え、どのように理解してもらうか。わたしたちの活動の永遠の目標であり、課題ですね」。鷲津さんは草原を守るために先を見据えます。
阿蘇の草原は、中山さんや鷲津さんのように阿蘇とともに生きる人々の、営みと思いによって守り継がれてきたもの。故郷の豊かさを知り、次の世代へつなげようと活動を続ける思いこそ、地域にとってかけがえのない宝であり、草原の未来をつむいでいく原動力になっています。
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(施設情報)
公益財団法人 阿蘇グリーンストック
(住所)熊本県阿蘇市小里656−1
(電話番号) 0967−32−3500
九州支部 地域ナビゲーター
中城 明日香
熊本県熊本市在住の編集者・ライター。
“毎瞬”を楽しむ姿勢で、自然、暮らし、農業、教育、観光、ファッション、アートなど、幅広いジャンルの記事を手がけています。取材対象者の声に丁寧に耳を傾け、それぞれの歓びに寄り添う文章を紡ぎます。